2025年6月27日、ハシダ技研工業株式会社の創業者・橋田寬会長が逝去されました。
その生涯は、幾多の辛苦を乗り越え、数々の尊い出会いを力に変えて突き進んだ、情熱の軌跡に他なりません。たった一人で立ち上げた自宅の工場を、
一代で売上200億円を超える企業へと育て上げた偉業の根底には、誰からも愛された豪快な人柄と、常に社員を思う温かな眼差しがありました。

「人をつくり、技を売る」

この社是に凝縮された氏の経営哲学と、彼が打ち立てた数々の「ハシダイズム」は、
今もなお私たちの進むべき道を照らす指針として大きな影響を与え続けています。
ここに、橋田寬が歩んだ足跡とともにその多大なる功績をご紹介します。

橋田寬の生涯

FOUNDER
HISTORY

激動の時代を駆け抜けた橋田寬の生涯を
ダイジェストでご紹介します。

幼少期の橋田寬

中学生の頃の寬
(中央)

青年時代の橋田寬

高尾金属工業時代の寬
(左から2番目)

独立後の寬

30代後半の寬

橋田塾の風景

田中通和氏(右端)と寬(左端)

数多くのM&Aを実施した

新社長就任式

MFE HIMUKAとの調印式

麻雀が大好きだった

幼少期の橋田寬

中学生の頃の寬
(中央)

DESTINY

「天職」との出会い

橋田寬は、昭和12(1937)年11月10日、愛媛県今治市で父・市太郎、母・ハナエのもとに生まれた。兄の勇次郎・春樹、姉の富子・三千代がおり、のちに妹・敏子が生まれている。
物心ついた時には父は戦地におり、母は5人の子を育てるのに必死だったが、寬には様々なことわざを通して人の道や世の理を教えてくれた。
家は海が近く、仲間とよく泳ぎに行った。父とのフナ釣りも楽しい思い出である。また、空襲の焼け跡で金属くずを拾ってはボロ屋に売って小遣いにしていた。その頃から「早く働いてお金を稼ぎたい」と考えていた。

中学校を中退した寬は果物屋に2か月ほど勤めた後、母の勧めで大阪へ。ボロ屋や八百屋の経験を経て、17歳で輸出用ランプの製造会社に転職する。給料は安かったが、モノづくりの仕事は何物にも代えがたい楽しみであった。
負けず嫌いな寬はここで10年先輩の職人をしのぐ仕事量をこなし、彼らの技術を盗み、さらに昼休みも金型作りの練習に打ち込む。半年後には工場で一番の腕前に達していた。製造業は、まさに彼の天職だったのだ。

その後も転職を重ね、大金製作所(現:エクセディ)に競争率10倍の難関を突破して入社するが、早々に工場で大怪我を負ってしまう。ところが人生万事塞翁が馬で、療養中の寬を知人が訪れ、高尾金属工業(現:ジーテクト)で一緒に働かないかと誘われた。もし怪我がなければ断っていただろう。
昭和31(1956)年、高尾金属工業に入社。同社はダイハツ工業の三輪トラックの部品を主に製造しており、これを機に寬は自動車の世界に身を投じることになる。

青年時代の橋田寬

高尾金属工業時代の寬
(左から2番目)

LEGACY

生きた証を残したい

高尾金属工業でも寬は瞬く間に頭角を現してゆく。職場で最も優秀な者を目標とし、追い抜くことを絶えず考えていた。新たな技能の習得にも苦労を惜しまない。昼休みはヤスリがけの修練に没頭。手に無数の豆やタコを作りながら、やがて意のままに鋼材を削れるようになった。この頃に磨いた技術は「金型屋・橋田寬」としての揺るぎない根幹となる。

ある日、昼休みにふと空を眺めていた寬は、その限りない広さに圧倒される。
“自分は何者なのか、何をしに生まれてきたのか”
湧き上がる問いに、彼は強い誓いを立てた。
「自分が生きた証を、この世に残したい。
 自らが設計したものが、何百年も残り続けるような仕事がしたい。」
この想いは終生、寬を突き動かし、ハシダ技研工業を一大企業へと押し上げる原動力となってゆくのである。

昭和30年代後半、モータリゼーションの到来と共に高尾金属も順調に発展し、大阪・箕面に新工場を建設。箕面の工場を見るのは自分しかいないと、入院中の社長の元へ行き、「工場を任せてほしい」と懇願、弱冠24歳で責任者を任される。
順風満帆に見えたが、その心中には葛藤があった。
「このままで良いのか…」
会社に不満はない。ただ、ぬるま湯のような現状に我慢できなかった。
無限の可能性と己の力を試すべく、会社に独立を志願。3度の交渉でようやく許され、寬は8年勤めた高尾金属をあとにする。

寬は布施市南蛇草に家を買い、ここで自らが考案したプロジェクションナットの製作を始めるが、品質が安定せずクレームが頻発。不安定な経営状況を脱することができず、本当はやりたくなかった金型の仕事を生活のために始めることを決意。こうして正式に「橋田製作所」がスタートした。昭和42(1967)年2月のことである。

独立後の寬

TURNING POINT

独立後の試練と転機

寬はあらゆる仕事を引き受け、技術を磨いた。また、客先への提案も積極的に行い、その技術と知見が評判を呼び、営業活動をしなくても自然と仕事が舞い込んでくるようになった。創業時の借金は1年半で完済し、独立2年後には新工場を竣工。建設費は1か月の利益で賄えた。

しかし昭和48(1973)年秋、オイルショックが勃発する。物価高騰の影響で仕事が途絶え、業績は急降下。累積赤字は約3,000万円に膨れ上がり、想像を絶する苦境に陥る。
寬は何度も廃業を考えたが、自分が会社を閉めたら、社員の人生を悪い方に変えてしまう。自分にその権利はない。自分で勝手に辞めるのはいいが、社長の勝手で社員の人生を変えるのはとんでもないことだと考え、自らの月給を削って働き、自社の所有地も売却してどうにか難局を克服した。

景気が落ち着いてきた昭和51(1976)年、ホンダの一次サプライヤー・三恵技研工業との取引を開始。自動車マフラー製造で世界的に評価されていた同社は、その後の橋田技研の飛躍に重要な役割を果たす。
ホンダ・ヤマハが二輪の覇権を争った「HY戦争」の最中は未曾有の増産対応に追われたが、長時間労働が当たり前だった当時、寬は残業月500時間超の激務にも「働きすぎて死んだ者はおらん」と現場を鼓舞し、三恵技研工業の技術者と励まし合って乗り越えている。

三菱重工高砂工場との出会いも大きな転換点だった。
寬は同工場から、国の技術開発プロジェクト「ムーンライト計画」に関わる新型ガスタービンの重要部品・インサートの製造を託される。難削材にして形状も複雑を極めたが、試行錯誤の末、納期直前で完成へとこぎつけた。この実績により、同工場のインサート製造は全て橋田技研に一任されることとなった。

こうした幾多の試練と良縁を経て、橋田技研はさらなる高みへと突き進んでいく。

30代後半の寬

STRUGGLE

苦労続きの奈良工場

昭和56(1981)年4月、寬は倒産した取引先の事業を譲り受ける形で奈良工場を新設。
最初に取引先から連絡を受けた時は気が乗らなかったが、たまたま居合わせた取引銀行の支店長から「お金のことは心配せずに」と強い後押しを受け、決断したのだった。

しかし奈良工場は、立ち上げ当初から苦労続きの運営となる。
最大の障壁は、人材の問題だった。いきなり今までの倍以上の工場を抱え、元社員と得意先を引き継いだものだから、現場の管理体制が追いつかない。工場長を何度替えても事態は好転しなかった。
この経験は、後に寬が人材育成に力を入れる大きなきっかけとなった。

奈良工場では、時に設備の能力を超えるような金型製造の案件も引き受けていた。2.8トンのクレーンを用いて総重量8~10トンに及ぶ型を製作することもあったが、これは寬が長年培ってきた経験と創意工夫あってこそ成し得たものだ。

ある時、旧知の取引先から、産業機械大手・クボタの案件が持ち込まれた。新製品のモアデッキ(芝刈機やトラクターに装着するユニット)の金型を製作できる会社が1か月以上も見つからずに困り果てていたのを、寬の技量を熟知していた担当者が「橋田ならできる」と見込んでのことだった。
大型の部品で納期も差し迫っていたが、寬は3日間・72時間にわたる不眠不休の作業の末にこれを完成させる。この実績が信頼となり、以降クボタからのモアデッキの受注は20年以上継続し、奈良工場の経営を支える大きな柱となっていく。

CHALLENGE

名阪工場新設のドラマ

50歳を迎え人間ドックで入院していた寬は、奈良工場に次ぐ新工場の建設を思い立つ。工場長に100坪程度の土地を探させるが、どの候補地も「大型トラックが入れない」「近隣に騒音の配慮が必要」などの問題があった。

そこで取引銀行の支店長に相談すると、奈良の山添村に1,000坪ほどの売地があるという。寬は退院後すぐに現地へ向かうが、いくら探しても目的の場所は見つからなかった。
諦めていた帰り道、ふと左手に巨大な造成地を目にした寬は、土地の斡旋業をしていた知人の森下氏を思い出す。立ち寄って事情を話すと、森下氏はその場で地主を呼び出し「今から見に行こう」と寬を連れ出した。案内された場所は、なんと先ほど見かけたあの造成地ではないか。
約4,500坪という広さに寬はためらうが、「こんな良い土地はもう二度と出ない」と強く勧められ、何かの導きを感じ、購入を決断した。

当時、橋田技研は最新の三次元レーザー切断機の納入を間近に控えており、寬はどうしてもこの機械を新工場に入れたかった。しかし建設には事前に土地の開発許可が必要で、まともにやれば1年以上かかる。寬は関係部署を回り「必ず開発申請はするから、先に工場を建てさせてほしい」と懇願。熱意が通じ、建設の許可を得られた。

昭和63(1988)年10月10日、250坪の工場が完成。現在の名阪工場である。
折しも開業のタイミングで三菱重工からガスタービンの受注が増え、順調に売上を伸ばしてゆく。数々の不思議な縁に、寬は「自分はつくづく運の良い男だ」と感じていた。

橋田塾の風景

FOUNDATION

「橋田塾」の設立

奈良工場での辛苦を糧に、寬は人材教育の重要性を痛感していた。彼は自らの歩みを毎年ノートに書き残していたが、その随所に社員の心得や求める人物像が綴られている。
その理念の集大成が「橋田塾(現・ハシダ塾)」だ。

平成4(1992)年11月、寬は有志と経営者セミナーを開催する。これに手応えを感じ、自社でもこうした勉強会をやってみたいと考えた。
また同じ頃、寬は不思議な夢を見る。
“お前は前を向いて走り続けているが、お前にもしものことがあったらどうする。人が育っていないのに会社を大きくして、何かあったら人様に迷惑をかけるだけではないか”
思わぬ忠言を夢の中で聞いた寬は「人作りは全てに優先する」と心に決め、翌朝の会議で橋田塾の設立を即決。平成5(1993)年1月30日、加美工業会館にて第1回が開催され、寬が自ら講師に立った。
参加資格は勤務3年以上。入塾者は3年間、毎月1回無給での勉強会参加を必須とし、受講後3日以内にレポート提出、不参加・未提出者は即退塾という厳しいものだった。これには会社への滅私奉公が美徳とされた時代背景もあっただろう。

折しも時代は「金型不況」の入り口に立っていた。3D CADとNC旋盤の普及で金型製造の高精度化・低コスト化が加速し、旧来の金型屋が相次いで倒産、橋田技研工業も前年の過去最高売上から赤字に急転した。会社を永続させるため、このタイミングでの人材改革は必然だったのかもしれない。
第2回以降は様々な企業・団体の重役を講師に招き、リーダー論や業務改善・組織づくり・人としての指針など様々なテーマで知見を深めた。

田中通和氏(右端)と寬(左端)

ENCOUNTER

田中通和氏との邂逅

橋田塾を始めて1年半、やや行き詰まりを感じていた寬に運命的な出会いが訪れる。ダイハツ工業でトヨタ生産方式(TPS)の礎を築いた、田中通和氏との出会いである。この出会いが寬にとって大きな転機となった。

初対面は平成6(1994)年7月、取引先に誘われた京都・貴船の料亭。ダイハツの専務を6月末に定年退職したばかりの田中氏に寬は「人材育成に力を貸してほしい」と懇願した。
ほどなく寬の元に、氏の著書が届く。カンバン方式を生んだ大野耐一氏(元トヨタ自動車副社長)の教えや取り組みが懇切に書かれており、寬は目から鱗が落ちる思いがした。
8月、工場を訪れた田中氏に寬は改めて協力を乞う。熱意に押された氏は「2年間だけ手伝う」と約束し、以降は毎週、橋田塾で教鞭を執った。

田中氏の講義は極めてレベルが高く、初めは塾生の理解がなかなか追いつかなかった。しかし開塾3年目の頃から、社員たちに変化が生まれる。技術者として、人間として、目覚ましい成長を遂げていった。いつしか橋田塾は田中氏のライフワークとなり、「塾生を育てるのがわしの生きがいだ」とまで言わしめた。塾生たちの多くは卒業後も第一線で活躍している。

人材の底上げと共に、橋田技研の業績も好転していった。
平成7(1995)年には第4の拠点として関東工場を新設。名阪工場は4度の増築で生産能力を飛躍的に高め、ISO9001認証取得、分社化による企業体質の強化、平成17(2005)年には三菱重工と特殊板金静翼の共同開発を成功させるなど、大企業としての礎を盤石にしてゆく。

数多くのM&Aを
実施した

ALTRUISM

M&Aを支える利他の精神

平成20(2008)年3月、寬は初のM&A(合併・買収)を実施する。対象はダイハツ向けガスタービン関連を担う町工場・谷田製作所。高い技術を持ちながら利益は年500万円に満たず、後継者もいない。寬は「できる範囲で支援しよう。人助けにもなる」と考え、資本提携を決断した。
再生を任されたのは当時24歳の吉岡亨浩(現・代表取締役)。現場では、部品や工具を相場の2~3倍で仕入れるなどずさんな経営が常態化していたが、発注体制を見直せば適正化は可能だった。吉岡は社員を率いて改革を進め、わずか1年で利益を約10倍に改善。またハシダ塾で社員教育にも注力した。この谷田製作所の再生は、橋田技研のM&Aにおけるロールモデルとなる。

以降、寬は年1~3件のペースでM&Aを進め、令和3(2021)年までに25社を再生。投資総額は約90億円に及ぶ。「5年連続赤字の企業を4か月で黒字化」「3年で利益10倍」などの華々しい成果と共に、後継者不在の企業を受け入れて技術と雇用を守り抜いた。一方で多様な技術を持つ企業を傘下に収め、グループの基盤強化にもつなげている。

寬はM&Aを「接木経営」と表現した。『M&Aした会社の根(社員・設備・技術など)は大切にし、接木(ハシダイズムの徹底)で新たな花を咲かせる』の意味だ。
そして根底には「困っている人や企業を救いたい」という思いがある。従業員の生活を第一に考え、自身は継承企業から役員報酬を受け取らなかった。これは寬が終生掲げた「神社佛閣の経営」にも通ずる利他の精神であろう。

新社長就任式

SUCCESSION

若き新社長に未来を託す

ハシダ技研工業・創業50周年の節目にあたる平成29(2017)年7月、寬は吉岡亨浩を次期社長に任命する。M&A第1号の谷田製作所の経営改善を見事成功させた吉岡は、その後もグループ各社の再建や組織の融和に奔走し、ハシダ技研を牽引する中心人物として活躍していた。まだ34歳と若かったが、寬は彼に大きな可能性を感じていた。また自らも80歳を迎えるこの年を、身を引くための良い潮時だと捉えていたのである。

同年11月、吉岡が正式に代表取締役就任。寬は代表取締役会長となり、引き続き新社長をサポートした。社長就任式では、「自分の最大の幸運は、これから社長になる吉岡君に出会ったことだ」と語った。

寬は会長就任直後1~2年は積極的に新社長の後見に動いたが、以降は自ら身を引くように経営の第一線から退いた。それでも、吉岡社長による日々の業績報告資料や、ハシダ塾の塾生たちが提出するレポートには必ず全て目を通していた。直接的な指示や経営への口出しはせずとも、会社や社員の成長を常に温かく見守る寬の姿がそこにはあった。あくまで吉岡社長中心の経営が円滑に機能するよう、影ながら支えるスタンスに徹したのである。
トップを退いた者が実権を握り続け、組織に軋轢を生むケースが少なくない中、寬のこのような見事な引き際は、自身の栄誉ではなく「社の永続と未来」を最優先に考えた、真の創業者たる器の大きさを物語っている。

MFE HIMUKA
との調印式

麻雀が大好きだった

FULFILLMENT

最後の大仕事と安堵の涙

令和3(2021)年、寬は最後の「大仕事」に着手する。傘下にあるグループ会社15社の全てを、ハシダ技研工業に統合するというものだ。

寬は常々「ハシダ技研を300年も500年も続く会社にしたい」と周囲に語っていた。会社の将来を見据えた時、世代交代の前に組織を一本化しておく必要性を強く感じていたのである。これは全社の就業規則や給与体系の統一など、数々の実務的な障壁を伴う一大改革だ。しかし寬の決意は強かった。「これは今しかできない。私にしかできない」
「ハシダの社員はみんな家族だ」と寬は言う。ハシダ技研が一丸となって団結し、難局を乗り越えていくための揺るぎない基盤を、自らの手で完成させたのだ。
そしてこの大改編を成し遂げたのとほぼ同時期に、寬は生まれ故郷の今治に戻った。

令和7(2025)年3月、MFE HIMUKAとの資本提携が成立。これは吉岡が社長となって初めて自身で実施を決断し、まとめ上げたM&A案件だった。その一報を聞いた寬は、「吉岡社長に任せて、良かった…」と大粒の涙を流した。半世紀以上にわたり心血を注いできたハシダ技研の未来を、次の世代に引き継げたことに安堵したのであろう。

令和7(2025)年6月27日、橋田寬は87歳でその生涯を終えた。
58年前、たった一人で立ち上げた橋田製作所は、売上200億円、社員1,000名を超える一大企業に成長していた。
数多の困難を技術と情熱で切り拓いたその姿は、従業員に受け継がれた「技」と「志」の中に、これからも永遠に生き続けていく。

橋田会長がハシダ技研工業を築く歩みの中で遺した言葉の数々は、単なる格言ではなく、
血の通った挑戦の記録そのものです。
時に厳しく、時に温かく、私たちの背中を押してくれる一言に宿る技術者の矜持と、未来を切り拓くヒントを紐解きます。

01 知恵を出し切る

仕事はいくら忙しくても、できませんと断ったことがありません。
絶えず全知全能を出し切って、『限りある身の我が力ためさん』と、自分自身に言い聞かせて頑張ってきました。

解説

橋田寬の独立間もない頃のエピソードです。
ある時、橋田製作所は高尾金属から約1,000kgの大型金型を2面受注します。しかし当時の工場には重量物を吊り上げるホイストがありませんでした。必死に思案した寬は工場を飛び出すと、橋の上で丸太を組み、チェーンブロックを取り付けて上げ下ろしが出来るようにし、そして橋の下で金型を作るという荒業を用います。そして見事にこの仕事をやり遂げたのです。
限界を自ら定めず、知恵と工夫で不可能を可能にしてきた寬だからこそ、その言葉には強い説得力と凄みを感じます。

02 信頼して任せる

自分が一番だと思っていた時は食うのがやっとでしたが、皆の方が偉いと思うと、考えてもなかったほどの仕事ができました。
これからも社員を信頼して、衆知経営をしていきたいと思っています。

解説

奈良工場を引き継いだ当初、寬は生産工程の全てを自らが指示していました。「自分が一番仕事ができる」との思いから、人に任せようとしなかったのです。しかし、奈良工場につきっきりになると本社の大阪工場に問題が起こり、逆に大阪工場を見ると奈良工場が回らないという悪循環に陥り、大変な苦労をさせられます。
この経験を通じて寬は、何でも一人で抱え込まず、信頼できる人に任せることの大切さを学びます。それは会社を成長させる上で非常に重要な教訓となりました。

03 神社佛閣の経営

神社佛閣の考え方を取り入れた経営ができないか。
営利を目的としない経営ができないか。何かできそうな気がする。
結果において利益は必要であるが、利益を目的としないで相手先・得意先の担当者に喜んでもらう。そのような経営を心掛けると、自然に神社佛閣の経営に近づけるようになるのではないだろうか。

解説

“創業80数年・社員300名以上の老舗企業が倒産”との一報に触れた寬は、なぜ歴史ある大企業が倒産し、一方で神社佛閣は何百年も残り続けるのか、と考えるようになります。
会社も単に利益を追うだけではなく、人に喜ばれ、必要とされる存在でなければ永続できない。
まずはお客様に喜ばれる仕事をする。そして社員を育て、社会に必要とされる存在になる。
その積み重ねの結果として利益を頂き、会社が永く続いていく。
この考え方は、神社佛閣が長く人々に大切にされ続けることから学んだ、寬の大切な経営哲学の一つです。

04 社員の人生を守る

自分には、会社を閉めて社員の人生を悪い方に変える権利は絶対にない。
自分から勝手に辞めるのは仕方ないが、社長の勝手で人の人生を変えるのはとんでもないことだ。

解説

オイルショックの影響で、経営が非常に厳しかった頃の言葉です。
3,000万円という巨額の累積赤字を抱えた寬は、会社を畳もうと何度も考えました。自分や家族のことだけを考えれば、廃業して別の仕事に就く道もあったでしょう。
しかし寬は、自分についてきてくれた社員を路頭に迷わせてはならないと言い聞かせ、必死に働きました。あまりの心労と激務に寬は2度、血尿を流す経験をしています。
上述の言葉は、社員と会社を守るための奮闘と共に、寬の強い責任感を如実に表すものです。

05 欠点を自覚する

経営者に100くらいの適性があるとしたら、そのうち1つか2つに欠陥があると、経営がうまくいかず倒産に至ることがある。
経営者とはより神仏に近くなるよう努力し、それでも駄目な場合は欠点を補う人が絶対に必要である。
自分の欠点を自覚し、経営に支障をきたすと感じたら早急に手を打たなければならない。

解説

M&Aなどを通じて様々な経営者を間近に見てきた寬ならではの、厳しくも誠実な経営観を表す言葉です。
経営者は自分自身を真摯に見つめ、自らに足りないものを補ってくれる人の力を借りなければならない。その上で日々の職務を全うし、周囲への感謝を忘れないことが大切だ、と考えていました。
著書では「経営が衰退する最大の原因は、経営者が自分が素晴らしい才能を持っていることに酔いしれ、何事も自分よりできる人がいないと信じていること」とも述べています。

ハシダイズム

橋田会長は、自らの経験や修学を通じて体系化した数々の経営哲学や勤労の理念、リーダー論を平易な言葉で私たちに語り聞かせてくれました。それらは「ハシダイズム」と呼ばれ、今も全社員の精神的支柱であり、指針であり続けています。

人をつくり、技を売る

人をつくり技を売る

現在のハシダ技研工業の社是にもなっている言葉です。
厳しい時代の中で会社が生き残るためには、設備や技術だけでなく、まず人を育てることが大切である、という考えが込められています。
社員一人ひとりが知恵を出し合い、同じ目標に向かって協力することで、お客様に喜んでいただける技術や品質を提供できる。
そのために橋田会長は「人をつくり、技を売る」大切さを訴え続けてきました。

ケチケチ大作戦

会長は徹底的に「無駄」を省きました。コピー用紙は裏紙を使い、新聞も全て解約し、商工会議所も脱退して経費を抑えました。

人生とは運と努力

会長は努力を惜しまない人でした。そして、運がある人でした。
「俺は、お客様、仕入先、社員など、人に恵まれていて運があるわ」とよく口にしていました。

自然流 勘と閃き
見抜く力

今までの経営判断を振り返った時、「この考え方で全て判断してきた」と語っていました。特に「見抜く力」は全社員に持ってほしいと強く願っていました。

会社のお金は
みんなのお金

会社の収益はみんなで稼いだもの。みんなで稼いだお金で買った建物・設備・工具だから、自分の物のように大切に扱うことを忘れないでほしいとの想いから生まれた言葉です。

堪え忍ぶ人が
優れり

様々な困難や不自由に遭遇した際、正面から向き合い耐えて乗り越えることで精神が鍛えられ、より大きな困難も乗り越えられるようになる、との教えです。

明日咲く花の蕾は
いくつあるか

花の蕾(仕事の案件)はたくさんあった方が良い。咲かない蕾もあるが、1つでも多く咲くように努力すること。

インタビュー

INTERVIEW

ハシダ技研の激動期を橋田会長と共に駆け抜け、その背中を最も近くで見守り続けてきた2名に、
在りし日の思い出と共に、知られざる会長の素顔や信念について語ってもらいました。

厳格な経営哲学と、無骨な愛情。 会長の教えを胸にハシダを次代へ導く。

代表取締役社長 吉岡 亨浩

2002年、橋田技研工業入社。若かりし頃から橋田会長の薫陶を受け、同社初のM&Aを筆頭に数々の重要プロジェクトを完遂。2017年11月、代表取締役社長に就任。「自分の最大の幸運は、これから社長になる吉岡君に出会ったことだ」(橋田会長)

「1円」「1分」の大事さを
教えられた

ご自身が創業者としてお金にものすごく苦労されてきましたので、やっぱり金銭面については非常に厳しかったですね。文字通り、1円を節約するために常に努力する方でした。
不要なものは買わず、コピー用紙は一番安いものを選び、裏まで使うように紙1枚でもうるさく言われました。今でもその習慣は残っていて、日頃私に来る報告書も裏紙が使われています。
商工会議所も脱退しましたし、新聞の購読もやめ、火災保険も解約しました。「無駄な経費を使うな」というのは徹底していました。

それと自身のご経験を踏まえてよく教えられたのは、納期の重要性です。
自動車や二輪の製造業界では時間単位で納期を指定されるのですが、例えば今日の12時が納期だとすると、11時59分に納品すればお客様は喜んでくれるが、12時1分だと怒られたといいます。わずか1分の差ですが、たとえ1分でも納期遅れは評価を下げるし、1分前なら満足してもらえる。この「1分の大事さ」をいつもおっしゃっていましたし、「1分で俺が言うた書類を出せるように、日頃から整理整頓しておけ」とも指導されていました。

無骨な言葉にこめられた想い

会長は、自分の本心を直接的に言うタイプではなかったです。それもハシダイズムの一つなのかもしれません。
例えば徹夜して商品を納める時も、「お客様には『余裕で作ってきました』ぐらいの顔で納めて来い。武士は食わねど高楊枝や」とよく言っていました。
良い成果が出た時こそ、涼しい顔をして持って行く。「私たちはこれだけ残業して、時間を費やしまして…」などとは言わない。これは「おごりが出てしまったら会社がおかしくなるよ」というメッセージだったのでしょう。今となってはよく分かります。

こんなこともありました。ハシダ技研が初めて行ったM&Aで、会長は当時24歳の私を提携先の責任者に抜擢しました。しかしマネジメント経験もない若造に職人たちはなかなかついてきてくれません。私は日中は事務所仕事、夜は工場で2~3時まで加工仕事という毎日を続けていました。当時は若かったし、とにかく必死でしたね。しかしそのストレスがたたり着任後2か月くらいで吐血し入院してしまいます。
2、3日後に会長が来てくれたんですが、この時も「苦労させて悪かったな」なんて一切言わなかったですね。「お前、酒の飲みすぎやな」「そうですわ、すみませんがちょっと休ませてください」「酒飲むなよ」これで終わりです。
恐らく会長は、何より私のことを案じて言ってくれたんだと思います。“お前がいなくても会社は回るんだから、何も心配せずゆっくり休め”という心遣いを強く感じました。

神様のように笑ってくれる人

仕事では厳しい会長でしたが、オフの時はいつもにこやかでした。笑顔がものすごい素敵なんです。さっきまでボロクソに怒られていても、仕事を離れたらバチッと変わってニコニコ笑って「カニ食いに行くぞ」となります。それで私も、ちょっと許されたような、失敗を水に流してくれたような気持ちになれました。本当に神様のように笑ってくれる人でした。助けられましたね、あの笑顔には。
遊びもいつも真剣で一生懸命。ゴルフでも何でも、もう絶対負けたくないという人でした。こちらが調子良かったらプレッシャーをかけてくるし、負けたら本気で悔しがっていました。麻雀でも、負けた日はちょっと機嫌が悪い。そういう子供っぽいというか、無邪気な面も会長の魅力でした。

最後に会長とお話ししたのは、亡くなる2週間くらい前です。前期が最高決算だったのを報告したら「お前に任せてよかった。今期も楽しみにしてるわ」と、ものすごく喜んでくれました。でも、その結果があるのも会長がこれまで親以上に親心をかけて私を育ててくれたからです。会長から学んだ様々な教えを忘れず、引き続き頑張っていきたいと思います。

仕事も遊びも、常に全力。 若き日の私を磨き上げた、大局の眼差し。

専務取締役 伊田 展充

2002年、橋田技研工業入社。入社数か月で新規事業の責任者に任命されるなど早くから橋田会長にその才能を見出される。数々の要職を歴任し、同社の現場運営や組織作りにおいて中心的な役割を担う。2023年1月、専務取締役に就任。

早くからチャンスを与えてくれた

私は入社2年目で、当時買収したばかりの自動ドア事業の立ち上げという大きな仕事を任されました。
3月末に話を頂いて、5月の連休明けには工場生産を始めたいというのです。事業のことも何も分からない中で、そんな短期間ではとても無理だと会長に相談に行くと「まあ、やってみようや」と。それから必死で取り組んで何とかやりきれたんですが、やっぱり気持ち次第といいますか、本気になったらできるんだと知らされました。

おそらく会長は、私にまだまだ実力がないのも分かった上で、「とにかく難しいことでもやりきるんだ」という信念を早い段階から叩きこんでくれたんだと思います。
実際、会長から頂いた仕事を一つこなすと、次はより厳しい無理難題が待っていました。そのペースがどんどん上がっていくのです。こうした経験を何度もさせてもらううち、新しい仕事や難しそうな仕事に飛び込むのにも抵抗がなくなりました。色々苦労もさせてもらいましたが「苦労は買ってでもせよ」とはよく言ったもので、その親心はとても強く感じています。

もちろん会長は、私だけでなく様々な人に平等にチャンスを与えておられました。マネージャーやプロジェクトリーダーに挑戦させることで能力を試されていたのだと思います。実力主義の時勢もあって、立場を全うできず評価を得られなかった社員も少なからず見てきました。
そんな中、ある程度仕事ができるようになってきた頃に一度会長と2人で出張に行った時、ぽろっと「お前と吉岡が、何でもやりきってきたからな」と言ってくれたんです。あまり人を褒める方ではなかったので、うれしかったですし、すごくよく覚えています。

仕事には厳しく、
遊ぶ時は思いっきり遊ぶ

会長は仕事には厳しいですが、遊ぶ時はもう思いっきり遊ぼう、という方でした。遊びすぎて怒られたことはありませんし、逆に遊ばないと怒られました。ご自宅にもしょっちゅう家族ぐるみで呼んでいただきました。鍋をやる時は会長はもっぱら「鍋奉行」で、私たちには触らせてくれませんでしたね。

遊びといえば、昔、会長と熊本に出張に行った時のことですが、私も当時は若かったので、朝まで飲みに出ていました。それで翌朝寝坊したんですが、会長は怒らないんです。さらに2日連続で寝坊してしまった時には会長から「行くぞ」と内線が入り、さすがに大目玉を覚悟しましたが、「お前はそういうやつやと思っとくわ」と軽く言われるだけでした。そうなると、かえって「仕事はちゃんとしよう」と引き締まるものです。

とにかく小事にとらわれない、私たちとは全く違う大局観があり、器の大きさを感じる方でした。

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