幼少期の橋田寬
中学生の頃の寬
(中央)
青年時代の橋田寬
高尾金属工業時代の寬
(左から2番目)
独立後の寬
30代後半の寬
橋田塾の風景
田中通和氏(右端)と寬(左端)
数多くのM&Aを実施した
新社長就任式
MFE HIMUKAとの調印式
麻雀が大好きだった
幼少期の橋田寬
中学生の頃の寬
(中央)
DESTINY
「天職」との出会い
橋田寬は、昭和12(1937)年11月10日、愛媛県今治市で父・市太郎、母・ハナエのもとに生まれた。兄の勇次郎・春樹、姉の富子・三千代がおり、のちに妹・敏子が生まれている。
物心ついた時には父は戦地におり、母は5人の子を育てるのに必死だったが、寬には様々なことわざを通して人の道や世の理を教えてくれた。
家は海が近く、仲間とよく泳ぎに行った。父とのフナ釣りも楽しい思い出である。また、空襲の焼け跡で金属くずを拾ってはボロ屋に売って小遣いにしていた。その頃から「早く働いてお金を稼ぎたい」と考えていた。
中学校を中退した寬は果物屋に2か月ほど勤めた後、母の勧めで大阪へ。ボロ屋や八百屋の経験を経て、17歳で輸出用ランプの製造会社に転職する。給料は安かったが、モノづくりの仕事は何物にも代えがたい楽しみであった。
負けず嫌いな寬はここで10年先輩の職人をしのぐ仕事量をこなし、彼らの技術を盗み、さらに昼休みも金型作りの練習に打ち込む。半年後には工場で一番の腕前に達していた。製造業は、まさに彼の天職だったのだ。
その後も転職を重ね、大金製作所(現:エクセディ)に競争率10倍の難関を突破して入社するが、早々に工場で大怪我を負ってしまう。ところが人生万事塞翁が馬で、療養中の寬を知人が訪れ、高尾金属工業(現:ジーテクト)で一緒に働かないかと誘われた。もし怪我がなければ断っていただろう。
昭和31(1956)年、高尾金属工業に入社。同社はダイハツ工業の三輪トラックの部品を主に製造しており、これを機に寬は自動車の世界に身を投じることになる。
青年時代の橋田寬
高尾金属工業時代の寬
(左から2番目)
LEGACY
生きた証を残したい
高尾金属工業でも寬は瞬く間に頭角を現してゆく。職場で最も優秀な者を目標とし、追い抜くことを絶えず考えていた。新たな技能の習得にも苦労を惜しまない。昼休みはヤスリがけの修練に没頭。手に無数の豆やタコを作りながら、やがて意のままに鋼材を削れるようになった。この頃に磨いた技術は「金型屋・橋田寬」としての揺るぎない根幹となる。
ある日、昼休みにふと空を眺めていた寬は、その限りない広さに圧倒される。
“自分は何者なのか、何をしに生まれてきたのか”
湧き上がる問いに、彼は強い誓いを立てた。
「自分が生きた証を、この世に残したい。
自らが設計したものが、何百年も残り続けるような仕事がしたい。」
この想いは終生、寬を突き動かし、ハシダ技研工業を一大企業へと押し上げる原動力となってゆくのである。
昭和30年代後半、モータリゼーションの到来と共に高尾金属も順調に発展し、大阪・箕面に新工場を建設。箕面の工場を見るのは自分しかいないと、入院中の社長の元へ行き、「工場を任せてほしい」と懇願、弱冠24歳で責任者を任される。
順風満帆に見えたが、その心中には葛藤があった。
「このままで良いのか…」
会社に不満はない。ただ、ぬるま湯のような現状に我慢できなかった。
無限の可能性と己の力を試すべく、会社に独立を志願。3度の交渉でようやく許され、寬は8年勤めた高尾金属をあとにする。
寬は布施市南蛇草に家を買い、ここで自らが考案したプロジェクションナットの製作を始めるが、品質が安定せずクレームが頻発。不安定な経営状況を脱することができず、本当はやりたくなかった金型の仕事を生活のために始めることを決意。こうして正式に「橋田製作所」がスタートした。昭和42(1967)年2月のことである。
独立後の寬
TURNING POINT
独立後の試練と転機
寬はあらゆる仕事を引き受け、技術を磨いた。また、客先への提案も積極的に行い、その技術と知見が評判を呼び、営業活動をしなくても自然と仕事が舞い込んでくるようになった。創業時の借金は1年半で完済し、独立2年後には新工場を竣工。建設費は1か月の利益で賄えた。
しかし昭和48(1973)年秋、オイルショックが勃発する。物価高騰の影響で仕事が途絶え、業績は急降下。累積赤字は約3,000万円に膨れ上がり、想像を絶する苦境に陥る。
寬は何度も廃業を考えたが、自分が会社を閉めたら、社員の人生を悪い方に変えてしまう。自分にその権利はない。自分で勝手に辞めるのはいいが、社長の勝手で社員の人生を変えるのはとんでもないことだと考え、自らの月給を削って働き、自社の所有地も売却してどうにか難局を克服した。
景気が落ち着いてきた昭和51(1976)年、ホンダの一次サプライヤー・三恵技研工業との取引を開始。自動車マフラー製造で世界的に評価されていた同社は、その後の橋田技研の飛躍に重要な役割を果たす。
ホンダ・ヤマハが二輪の覇権を争った「HY戦争」の最中は未曾有の増産対応に追われたが、長時間労働が当たり前だった当時、寬は残業月500時間超の激務にも「働きすぎて死んだ者はおらん」と現場を鼓舞し、三恵技研工業の技術者と励まし合って乗り越えている。
三菱重工高砂工場との出会いも大きな転換点だった。
寬は同工場から、国の技術開発プロジェクト「ムーンライト計画」に関わる新型ガスタービンの重要部品・インサートの製造を託される。難削材にして形状も複雑を極めたが、試行錯誤の末、納期直前で完成へとこぎつけた。この実績により、同工場のインサート製造は全て橋田技研に一任されることとなった。
こうした幾多の試練と良縁を経て、橋田技研はさらなる高みへと突き進んでいく。
30代後半の寬
STRUGGLE
苦労続きの奈良工場
昭和56(1981)年4月、寬は倒産した取引先の事業を譲り受ける形で奈良工場を新設。
最初に取引先から連絡を受けた時は気が乗らなかったが、たまたま居合わせた取引銀行の支店長から「お金のことは心配せずに」と強い後押しを受け、決断したのだった。
しかし奈良工場は、立ち上げ当初から苦労続きの運営となる。
最大の障壁は、人材の問題だった。いきなり今までの倍以上の工場を抱え、元社員と得意先を引き継いだものだから、現場の管理体制が追いつかない。工場長を何度替えても事態は好転しなかった。
この経験は、後に寬が人材育成に力を入れる大きなきっかけとなった。
奈良工場では、時に設備の能力を超えるような金型製造の案件も引き受けていた。2.8トンのクレーンを用いて総重量8~10トンに及ぶ型を製作することもあったが、これは寬が長年培ってきた経験と創意工夫あってこそ成し得たものだ。
ある時、旧知の取引先から、産業機械大手・クボタの案件が持ち込まれた。新製品のモアデッキ(芝刈機やトラクターに装着するユニット)の金型を製作できる会社が1か月以上も見つからずに困り果てていたのを、寬の技量を熟知していた担当者が「橋田ならできる」と見込んでのことだった。
大型の部品で納期も差し迫っていたが、寬は3日間・72時間にわたる不眠不休の作業の末にこれを完成させる。この実績が信頼となり、以降クボタからのモアデッキの受注は20年以上継続し、奈良工場の経営を支える大きな柱となっていく。
CHALLENGE
名阪工場新設のドラマ
50歳を迎え人間ドックで入院していた寬は、奈良工場に次ぐ新工場の建設を思い立つ。工場長に100坪程度の土地を探させるが、どの候補地も「大型トラックが入れない」「近隣に騒音の配慮が必要」などの問題があった。
そこで取引銀行の支店長に相談すると、奈良の山添村に1,000坪ほどの売地があるという。寬は退院後すぐに現地へ向かうが、いくら探しても目的の場所は見つからなかった。
諦めていた帰り道、ふと左手に巨大な造成地を目にした寬は、土地の斡旋業をしていた知人の森下氏を思い出す。立ち寄って事情を話すと、森下氏はその場で地主を呼び出し「今から見に行こう」と寬を連れ出した。案内された場所は、なんと先ほど見かけたあの造成地ではないか。
約4,500坪という広さに寬はためらうが、「こんな良い土地はもう二度と出ない」と強く勧められ、何かの導きを感じ、購入を決断した。
当時、橋田技研は最新の三次元レーザー切断機の納入を間近に控えており、寬はどうしてもこの機械を新工場に入れたかった。しかし建設には事前に土地の開発許可が必要で、まともにやれば1年以上かかる。寬は関係部署を回り「必ず開発申請はするから、先に工場を建てさせてほしい」と懇願。熱意が通じ、建設の許可を得られた。
昭和63(1988)年10月10日、250坪の工場が完成。現在の名阪工場である。
折しも開業のタイミングで三菱重工からガスタービンの受注が増え、順調に売上を伸ばしてゆく。数々の不思議な縁に、寬は「自分はつくづく運の良い男だ」と感じていた。
橋田塾の風景
FOUNDATION
「橋田塾」の設立
奈良工場での辛苦を糧に、寬は人材教育の重要性を痛感していた。彼は自らの歩みを毎年ノートに書き残していたが、その随所に社員の心得や求める人物像が綴られている。
その理念の集大成が「橋田塾(現・ハシダ塾)」だ。
平成4(1992)年11月、寬は有志と経営者セミナーを開催する。これに手応えを感じ、自社でもこうした勉強会をやってみたいと考えた。
また同じ頃、寬は不思議な夢を見る。
“お前は前を向いて走り続けているが、お前にもしものことがあったらどうする。人が育っていないのに会社を大きくして、何かあったら人様に迷惑をかけるだけではないか”
思わぬ忠言を夢の中で聞いた寬は「人作りは全てに優先する」と心に決め、翌朝の会議で橋田塾の設立を即決。平成5(1993)年1月30日、加美工業会館にて第1回が開催され、寬が自ら講師に立った。
参加資格は勤務3年以上。入塾者は3年間、毎月1回無給での勉強会参加を必須とし、受講後3日以内にレポート提出、不参加・未提出者は即退塾という厳しいものだった。これには会社への滅私奉公が美徳とされた時代背景もあっただろう。
折しも時代は「金型不況」の入り口に立っていた。3D CADとNC旋盤の普及で金型製造の高精度化・低コスト化が加速し、旧来の金型屋が相次いで倒産、橋田技研工業も前年の過去最高売上から赤字に急転した。会社を永続させるため、このタイミングでの人材改革は必然だったのかもしれない。
第2回以降は様々な企業・団体の重役を講師に招き、リーダー論や業務改善・組織づくり・人としての指針など様々なテーマで知見を深めた。
田中通和氏(右端)と寬(左端)
ENCOUNTER
田中通和氏との邂逅
橋田塾を始めて1年半、やや行き詰まりを感じていた寬に運命的な出会いが訪れる。ダイハツ工業でトヨタ生産方式(TPS)の礎を築いた、田中通和氏との出会いである。この出会いが寬にとって大きな転機となった。
初対面は平成6(1994)年7月、取引先に誘われた京都・貴船の料亭。ダイハツの専務を6月末に定年退職したばかりの田中氏に寬は「人材育成に力を貸してほしい」と懇願した。
ほどなく寬の元に、氏の著書が届く。カンバン方式を生んだ大野耐一氏(元トヨタ自動車副社長)の教えや取り組みが懇切に書かれており、寬は目から鱗が落ちる思いがした。
8月、工場を訪れた田中氏に寬は改めて協力を乞う。熱意に押された氏は「2年間だけ手伝う」と約束し、以降は毎週、橋田塾で教鞭を執った。
田中氏の講義は極めてレベルが高く、初めは塾生の理解がなかなか追いつかなかった。しかし開塾3年目の頃から、社員たちに変化が生まれる。技術者として、人間として、目覚ましい成長を遂げていった。いつしか橋田塾は田中氏のライフワークとなり、「塾生を育てるのがわしの生きがいだ」とまで言わしめた。塾生たちの多くは卒業後も第一線で活躍している。
人材の底上げと共に、橋田技研の業績も好転していった。
平成7(1995)年には第4の拠点として関東工場を新設。名阪工場は4度の増築で生産能力を飛躍的に高め、ISO9001認証取得、分社化による企業体質の強化、平成17(2005)年には三菱重工と特殊板金静翼の共同開発を成功させるなど、大企業としての礎を盤石にしてゆく。
数多くのM&Aを
実施した
ALTRUISM
M&Aを支える利他の精神
平成20(2008)年3月、寬は初のM&A(合併・買収)を実施する。対象はダイハツ向けガスタービン関連を担う町工場・谷田製作所。高い技術を持ちながら利益は年500万円に満たず、後継者もいない。寬は「できる範囲で支援しよう。人助けにもなる」と考え、資本提携を決断した。
再生を任されたのは当時24歳の吉岡亨浩(現・代表取締役)。現場では、部品や工具を相場の2~3倍で仕入れるなどずさんな経営が常態化していたが、発注体制を見直せば適正化は可能だった。吉岡は社員を率いて改革を進め、わずか1年で利益を約10倍に改善。またハシダ塾で社員教育にも注力した。この谷田製作所の再生は、橋田技研のM&Aにおけるロールモデルとなる。
以降、寬は年1~3件のペースでM&Aを進め、令和3(2021)年までに25社を再生。投資総額は約90億円に及ぶ。「5年連続赤字の企業を4か月で黒字化」「3年で利益10倍」などの華々しい成果と共に、後継者不在の企業を受け入れて技術と雇用を守り抜いた。一方で多様な技術を持つ企業を傘下に収め、グループの基盤強化にもつなげている。
寬はM&Aを「接木経営」と表現した。『M&Aした会社の根(社員・設備・技術など)は大切にし、接木(ハシダイズムの徹底)で新たな花を咲かせる』の意味だ。
そして根底には「困っている人や企業を救いたい」という思いがある。従業員の生活を第一に考え、自身は継承企業から役員報酬を受け取らなかった。これは寬が終生掲げた「神社佛閣の経営」にも通ずる利他の精神であろう。
新社長就任式
SUCCESSION
若き新社長に未来を託す
ハシダ技研工業・創業50周年の節目にあたる平成29(2017)年7月、寬は吉岡亨浩を次期社長に任命する。M&A第1号の谷田製作所の経営改善を見事成功させた吉岡は、その後もグループ各社の再建や組織の融和に奔走し、ハシダ技研を牽引する中心人物として活躍していた。まだ34歳と若かったが、寬は彼に大きな可能性を感じていた。また自らも80歳を迎えるこの年を、身を引くための良い潮時だと捉えていたのである。
同年11月、吉岡が正式に代表取締役就任。寬は代表取締役会長となり、引き続き新社長をサポートした。社長就任式では、「自分の最大の幸運は、これから社長になる吉岡君に出会ったことだ」と語った。
寬は会長就任直後1~2年は積極的に新社長の後見に動いたが、以降は自ら身を引くように経営の第一線から退いた。それでも、吉岡社長による日々の業績報告資料や、ハシダ塾の塾生たちが提出するレポートには必ず全て目を通していた。直接的な指示や経営への口出しはせずとも、会社や社員の成長を常に温かく見守る寬の姿がそこにはあった。あくまで吉岡社長中心の経営が円滑に機能するよう、影ながら支えるスタンスに徹したのである。
トップを退いた者が実権を握り続け、組織に軋轢を生むケースが少なくない中、寬のこのような見事な引き際は、自身の栄誉ではなく「社の永続と未来」を最優先に考えた、真の創業者たる器の大きさを物語っている。
MFE HIMUKA
との調印式
麻雀が大好きだった
FULFILLMENT
最後の大仕事と安堵の涙
令和3(2021)年、寬は最後の「大仕事」に着手する。傘下にあるグループ会社15社の全てを、ハシダ技研工業に統合するというものだ。
寬は常々「ハシダ技研を300年も500年も続く会社にしたい」と周囲に語っていた。会社の将来を見据えた時、世代交代の前に組織を一本化しておく必要性を強く感じていたのである。これは全社の就業規則や給与体系の統一など、数々の実務的な障壁を伴う一大改革だ。しかし寬の決意は強かった。「これは今しかできない。私にしかできない」
「ハシダの社員はみんな家族だ」と寬は言う。ハシダ技研が一丸となって団結し、難局を乗り越えていくための揺るぎない基盤を、自らの手で完成させたのだ。
そしてこの大改編を成し遂げたのとほぼ同時期に、寬は生まれ故郷の今治に戻った。
令和7(2025)年3月、MFE HIMUKAとの資本提携が成立。これは吉岡が社長となって初めて自身で実施を決断し、まとめ上げたM&A案件だった。その一報を聞いた寬は、「吉岡社長に任せて、良かった…」と大粒の涙を流した。半世紀以上にわたり心血を注いできたハシダ技研の未来を、次の世代に引き継げたことに安堵したのであろう。
令和7(2025)年6月27日、橋田寬は87歳でその生涯を終えた。
58年前、たった一人で立ち上げた橋田製作所は、売上200億円、社員1,000名を超える一大企業に成長していた。
数多の困難を技術と情熱で切り拓いたその姿は、従業員に受け継がれた「技」と「志」の中に、これからも永遠に生き続けていく。